この記事を書いた専門家

渡辺 知子(わたなべ ともこ)
臨床心理士 / 陰ヨガ専門指導者
大手コンサルティングファームの元企業内カウンセラー。常に高いパフォーマンスを求められる環境で、多くのビジネスパーソンが心身のバランスを崩す現実を目の当たりにする。その経験から、思考と身体の繋がりを重視したアプローチの重要性を痛感し、臨床心理士としての知見を活かせる陰ヨガの指導者となる。「思考の暴走」に悩む人々に、科学的根拠に基づいた、実践的で優しい休息法を伝えることを使命としている。
毎日、頭の中がタスクリストでいっぱいで、脳の電源スイッチがどこにあるのか分からなくなっていませんか?かつての私もそうでした。陰ヨガは、その「思考の暴走」を力ずくで止める練習ではありません。むしろ、その嵐の中で、静かに座るための「いかだ」を見つけるような時間なのです。脳科学の観点からも、とても理にかなった休息法なんですよ。
もしあなたが、その状態を解消するために「静かにする」ことが逆に苦痛だと感じているなら、陰ヨガこそがその処方箋かもしれません。
この記事では、臨床心理士の視点から、陰ヨガが「何もしない」苦行ではなく、脳を戦略的に休ませ、体の深層緊張を解放する科学的な時間であることを解説します。
この記事を読み終える頃には、「静寂が怖い」というあなたの不安は、“静けさの持つ力”への知的な好奇心に変わり、今夜から試せる本当の休息を手に入れているでしょう。
なぜジムで汗を流しても「芯の疲れ」が取れないのか?~陽と陰の組織の話~
あなたが日常的に感じている「芯から抜けない疲れ」や「慢性的な緊張感」。その正体を理解するために、まず私たちの体にある2種類の組織について知る必要があります。一般的なヨガである陽ヨガと、今回お話しする陰ヨガは、アプローチする組織が全く異なります。この陽ヨガと陰ヨガは対立するものではなく、互いに補完し合う関係にあります。
一つは、体の表層にあり、伸縮性に富んで素早い動きを担う「筋肉」。これは活動的な「陽」の組織です。あなたがジムで行うトレーニングや、アクティブな陽ヨガは、主にこの筋肉を鍛えています。
もう一つは、体のより深層部にあり、関節や骨を繋ぎとめている「結合組織(筋膜、靭帯、腱など)」。こちらは硬く、伸縮性が低い「陰」の組織です。あなたが感じている「芯の疲れ」や「こわばり」は、実はこの陰の組織に深く刻み込まれています。
重要なのは、陽の組織である筋肉は動かすことでほぐれますが、陰の組織である結合組織は、動かしてもほとんど変化しないということです。あなたがアクティブな運動の後に達成感はあっても芯の疲れが取れないと感じるのは、アプローチしている組織が違うからなのです。
陰ヨガの「3分間の静止」が、脳と体を深く癒す2つの科学的メカニズム
では、どうすれば陰の組織にアプローチできるのでしょうか。その答えが、陰ヨガの最大の特徴である「長時間保持(ロングホールド)」にあります。陰ヨガがなぜ3分から5分もの間ポーズを保つのか、その理由を2つの科学的なメカニズムから解説します。
1. 身体的メカニズム:硬い「結合組織」を解放する唯一の方法
結合組織の柔軟性を回復させるためには、筋肉とは異なり、穏やかで長時間の刺激、つまり長時間保持が不可欠です。筋肉が「輪ゴム」だとすれば、結合組織は「冷えたキャラメル」のようなもの。輪ゴムは素早く伸び縮みできますが、冷えて硬くなったキャラメルを急に引っ張ると、ちぎれてしまいます。キャラメルを柔らかくするには、手のひらでじっくりと、優しく温め続ける必要がありますよね。陰ヨガの長時間保持は、まさにこのプロセスと同じです。筋肉の力を抜き、重力に身を任せて穏やかな圧をかけ続けることで初めて、硬くなった結合組織がじわじわと解放され、潤いを取り戻していくのです。

2. 神経的メカニズム:「静寂」が脳の休息スイッチを入れる
陰ヨガの実践がもたらす深いリラクゼーションは、自律神経のうち心身を休息モードにする「副交感神経」を優位にさせる、効果的な手段だからです。ポーズをとり、外部からの刺激を最小限にした「静寂」な状態に身を置くと、私たちの脳は活動モード(交感神経優位)から、休息・回復モード(副交感神経優位)へと自然に切り替わっていきます。心拍数は落ち着き、呼吸は深まり、筋肉の緊張は解けていきます。これは、脳が「今は安全で、休んでいい時間だ」と認識するからです。陰ヨガの静止は、この脳のスイッチを意図的に切り替えるための、非常にパワフルな時間なのです。
「思考が湧いても、それでいい」静寂を”苦行”にしないための3つの心のスイッチ
「静かにしていると、かえって色々なことを考えてしまって落ち着きません。私は陰ヨガに向いていないのでしょうか?」これは、私がカウンセラー時代から、そしてヨガ指導者になった今も、最もよく受ける質問の一つです。
思考は、無理に消そうとすればするほど、暴れ出します。
なぜなら、思考を「敵」と見なして戦おうとすること自体が、脳を興奮させる「陽」の行為だからです。私自身も、かつては「思考を空にすること」が瞑想だと思い込んでいました。しかし陰ヨガを通じて、思考は消すものではなく、「ただ観察する対象」なのだと理解しました。思考と自分との間に距離が生まれた時、初めて本当の静寂が訪れるのです。
思考が湧き上がるのは、脳の自然な働きです。その働きと戦うのではなく、上手にかわすための、3つの心のスイッチをお伝えします。
- 思考に「ラベル」を貼って、手放す
仕事のことが頭に浮かんだら、「あ、仕事の思考だな」と心の中でラベルを貼ります。そして、その思考を空に浮かぶ雲のように、ただ流れていくのを眺めます。深入りもせず、追い払いもせず、ただ「あるね」と認識して、そっと手放す練習です。 - 意識の「錨(いかり)」を呼吸と身体感覚に下ろす
思考の嵐に流されそうになったら、意識を船の錨のように、体の感覚に下ろしてみましょう。「吐く息でお腹がへこむ感覚」「右の股関節のじんわりとした感覚」など、今この瞬間に起きている物理的な感覚に意識を集中させます。これが、思考のループから抜け出すための強力なツールになります。 - プロップスに身を委ね、「頑張る」を完全に手放す
陰ヨガにおいて、クッションやブランケットなどのプロップス(補助具)は、頑張りを手放すための必須ツールです。少しでも体に力みを感じるなら、それはプロップスが足りないサイン。体の下にクッションを何枚も重ね、完全に体重を預けてみてください。「ポーズを支える」というタスクから解放された時、心も体も深く委ねることができるようになります。
初めての陰ヨガ|自宅でできる3つの基本ポーズと注意点
さあ、理論が分かったところで、実際に体を動かしてみましょう。ご自宅にあるクッションや、丸めたバスタオルをいくつか用意してください。大切なのは、痛みを感じない、心地よい範囲で行うことです。
1. バタフライ(ターゲット:股関節の内側、背骨)

- 床に座り、足の裏同士を合わせます。かかとは体から少し離しておきましょう。
- お尻の下に畳んだブランケットを敷くと、骨盤が安定しやすくなります。
- 息を吐きながら、ゆっくりと上半身を前に倒します。
- 頭の下や、お腹と足の間にクッションをたくさん重ね、完全に体を預けましょう。
- 股関節の内側や背中に穏やかな伸びを感じながら、3分間、深い呼吸を続けます。
2. スフィンクス(ターゲット:背骨、腰)

- うつ伏せになり、肩の真下に肘をつきます。前腕と手のひらは床につけましょう。
- 足は腰幅程度に開き、リラックスさせます。
- 腰に強い圧迫感を感じる場合は、肘を少し前に歩かせるか、胸の下に薄いクッションを置いて高さを調整してください
- 腰や背骨に穏やかな圧を感じながら、3分間、自然な呼吸を続けます。
3. チャイルドポーズ(ターゲット:全身の弛緩)

- 四つん這いから、膝を大きく開き、足の親指同士をつけます。
- お尻をかかとの方へ下ろしていきます。
- 体の前にクッションやボルスターを置き、その上に胸やお腹を預けるようにして上半身を倒します。
- 全身の力が抜け、床に溶けていくような感覚を味わいながら、3〜5分間、静かに呼吸します。
まとめ:本当の休息は、「何もしない」の中にある
お疲れ様でした。
陰ヨガは、思考と戦う場所ではありません。湧き上がる思考も、体の硬さも、すべてを「それでいいんだ」と受け入れる、深い受容の練習の場です。
常に活動し、成果を出し続けるあなたの心と体は、静寂の中で回復する力を本来持っています。陰ヨガは、その力をもう一度信じ、取り戻すための時間です。
今夜、ベッドの上でクッションを抱え、まずは「バタフライのポーズ」で3分間だけ、目を閉じてみてください。何も期待せず、ただ、そこにいる自分を感じることから始めてみましょう。

コメント